志を立てる
2018年4月25日 12時55分 今年は、明治維新150年です。幕末から明治にかけての先人の生き方には学ぶことがたくさんあります。
吉田松陰は松下村塾で、近所の青少年に「人としていかに生きるべきか」を説きました。また、一人一人の優れたところを見つけ、立志に導きました。松陰から薫陶を受けた若者たちは、志を受け継ぎ、様々な分野で活躍し、明治の日本をつくりました。
天野清三郎は15歳で松下村塾に入塾。4歳年上の高杉晋作とよく行動を共にしました。しかし、清三郎は晋作の足手まといになるのではと思うようになります。頭の働きが鈍い自分は、臨機応変にあらゆる事態に的確に対処する晋作のまねはとてもできないと思い始めたのです。
では、自分はどう生きればよいのか。悩みました。
清三郎の心に残っている松陰の言葉がありました。
「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。黒船を造らなければ日本
はほろぼされてしまう。」
「そうだ。自分は頭の働きが鈍くて勉強ぎらいだけど、手先が
器用だ。物を作るのが好きだ。船造りになって日本を守ろう。」
志を立てた清三郎は、行動します。24歳で脱藩し、イギリスに密航。ロンドンの造船所で働きながら船造りを覚えました。
しかし、重大なことに気づきます。船を造るには、数学や物理学の学問が必要なのです。
そこで、昼は造船所で働き、夜は学校へ通い数学や物理学を勉強しました。よく分からない英語を使って勉強したのです。後に、血を吐く思いで勉強したと語っています。
イギリスで3年、アメリカで3年学び、帰国したのは明治7年。31歳でした。清三郎は長崎造船所の初代所長となり、日本の造船業の礎を築きました。
郡家東小学校の学校教育目標に「志を立て」とあります。自分のよさを生かし、世のため人のためになる生き方を志してほしいという願いを込めています。
清三郎は志を立てました。このような志を立てることができたのは、自分はどう生きればよいか真剣に考えたことと、敬愛する松陰先生の願いに応えたい、という熱い思いがあったからでしょう。
子供のよさを見つめ、才能や魅力を発見し、子供の立志への支援ができる大人(教師、親)になりたいものです。
校長 安住 順一