学校長あいさつ

創立百三十周年記念式典 校長式辞

2015年11月11日 12時00分

式 辞

 

一千八百八十五年(明治十八年)六月五日、ここ倉吉の地に生まれた鳥取県立倉吉農業高等学校は、悠久の時の流れを経て、ここに創立百三十年という遙かなる歴史にひとつの区切りを迎えました。

 

本日、この栄えある記念式典を挙行できますこと、喜びに堪えません。

 

この佳き日にご参列いただきました鳥取県教育委員長 中島 諒人 様、倉吉市長 石田 耕太郎 様、また遠く北海道鶴居村からおいでいただいた鶴居村村長 大石 正行 様をはじめ、ご来賓各位及び関係機関の方、そして多くの進修会員のみなさまをお迎えでき記念式典を開催できますことに感謝を申し上げます。

 

倉吉農業高等学校は創立された明治十八年から、さらにさかのぼる明治十四年に、創立功労者のひとり山枡友蔵が中心となって、倉吉にある大岳院を仮校舎に、公立久米河村農学校として設立されました。

 

設立の際の議案の説明書には、「世界の中の日本の現状に鑑み、農工の振興、特に倉吉地方においては農業の発展をめざして農学校を構想した」とあります。その当時からすでにグローバルな視点で農業をとらえるなど、きわめて独自な発想で設立されたものでした。

 

そののち、山枡友蔵とともに創立に関わっていた山枡直好など、多くの方々の努力の成果で、何とか県立移管を果たして鳥取県立倉吉農学校となり、明治十八年六月五日に堺町に新築された校舎で開校式を迎えています。この年を本校の創立の年とし、六月五日を創立記念日としているゆえんであります。

 

その後、生徒数の増加に伴い、現在の倉吉市大谷に移転先を求めました。教師や生徒たちは堺町校舎から大型の馬車で通い、馬三頭を使ってアメリカ式のスキで開墾に着手しました。その開墾の姿は見物人のあるほどで、アメリカの農法が鳥取県に入り、全山陰の農業を覚醒したと記録されています。

 

そういった創立当時の先人たちの必死の努力があり、明治二十年十一月に現在地に移転し、今日の基礎が築かれています。

その後、農学校設置のよりどころとなっていた「農学校通則」が廃止され、全国各地の農学校が廃校となる中、明治二十八年にはいったん廃校となりましたが、農学校を貴重な存在と考えていた当時の鳥取県議会議長であり、第一回衆議院選挙で当選した山瀬幸人が鳥取県立簡易農学校としてすぐさま再興しました。倉農中興の祖と言われる山瀬幸人は、県議会議長でありながら第十一代校長を買って出て、倉吉農学校は大きく発展しています。

 

明治三十四年には鳥取県立農学校と改称され、その年には小松宮彰仁親王から、農は国の本であるという意味の「國本」の親書を賜り、そして現在の「月星」校章と校旗を制定しています。校章は山瀬幸人校長の発案によるもので、「あしたに星をいただき夕べに月を踏んで帰る」という勤勉を表したものであり、また農業の頭文字Aを、北斗七星を意味する七つ円状に並べて表象化したものです。

 

そののちの第二次大戦や新制高校への再編を経ても一点の変更もなく、明治の時代から今に至っている校章は本校の校章のみです。校旗についてもこのときに制定されたものが、今でも引き継がれています。

 

明治四十年には後の大正天皇である皇太子嘉仁親王が行啓され、そのときに国府の田中喜一郎から寄付されたのが、第一校門から学校へと続く喜久道であり、またそのときから校地を「太子が丘」と称し、また皇太子がお手植えされた金松の一帯を「清庭」と称しています。これらの学校内の地名は今でも伝わり、倉農生の誇りとなっています。

 

そして、明治、大正、昭和と時が流れ、昭和二年には現在の校歌が制定されました。開校してから四十年、それまで校歌というものがなく、この段階で制定されたということも珍しいですが、戦前から学制改革を経て学校名が変わった今でも同じ校歌が引き継がれるということも珍しい話しであります。校歌を作詞した本校職員河本緑石は、宮沢賢治とともに同人誌「アザリア」を創刊した人であり、現在も祥雲寮で歌われている寮歌も作詞しています。

 

戦渦が広がり、勤労報国隊が組織され、勤労動員や援農が展開されるなど、学校は農場実習や軍事教練の毎日となり、学校が戦時色に塗りつぶされた時を経て、終戦後、昭和二十三年には現在の鳥取県立倉吉農業高等学校と改称しています。

 

そして、昭和三十一年、第二十三代校長の尾平正義は広い校地を生かした「夢のある農業」としてめざしたのが、今でも続いている北海道鶴居村での酪農実習です。それが六十年たった今でも、そのつながりがあることに、歴代の鶴居村村長様をはじめとして鶴居村の方々には感謝の言葉もありません。鶴居村で実習を行った生徒たちが、今では本県酪農を支える人材となっているのがこの事業の成果の証でもあります。

 

そして昭和四十二年には全寮制自営者養成農業高等学校として、当時の文部省から指定を受け、新たに嵐が丘牧場や祥雲寮を創設し、さらに農場規模を拡大して現在のかたちとなっています。嵐が丘牧場は、黒ぼくの土にあった一面の桑畑を、その当時の生徒たちが朝から晩まで、真っ黒になりながら掘り起こし造成したと聞いています。

 

また、創立当時に掲げられていた「世界の中の日本」として構想された倉吉農学校として、平成六年に始まったニュージーランド・フォレストビュー高校、トコロア高校との交流も今年で十九回を数え、今でも進修会からの支援をいただきながら続き、世界へと羽ばたく生徒たちが育っています。

 

明治十八年に創立されてから百三十年。そのときそのときの政治や農業情勢に翻弄されながら、一万三千有余の人材を送り出してまいりました。

国会議員や大学教授、そして県知事など、多くの有為な人材を輩出し、そして鳥取県や日本を支えるたくさんの実業家を輩出してきました。

そして、何より、本校は鳥取県農業や、地域を支える担い手を数多く送り出しています。

 

これからも未来の鳥取県農業の担い手の育成と、ふるさと鳥取県を支える人材の育成という原理原則をしっかりと守り、地方創生の流れの中、ローカルでありかつグローバルな学校として、また先輩諸氏から受け継いだ倉農魂を後世に引き継ぎ、多くの方々に支えられながら存続していく覚悟であります。

 

今後とも、本日ご参集いただきましたご来賓のみなさま、そして多くの進修会会員のみなさまからのご指導、ご鞭撻をいただくことをお願いし、そしてここにおいでいただいたことに深く感謝を申し上げ、創立百三十周年にあたっての式辞といたします。

 

 

平成二十七年十一月十一日

 

鳥取県立倉吉農業高等学校

第三十八代校長 田 中 正 士

学校長あいさつ

2014年4月17日 14時45分

 
  学校長 田中正士


「農業の力」  



 

倉吉農業高等学校は明治18年(1885年)に鳥取県立倉吉農学校として創立され、平成27年には創立130周年を迎える歴史と伝統のある学校です。明治20年には現在の倉吉市大谷の地に移され、爾来(じらい)多くの卒業生をこの地から輩出してきました。学校の名も昭和23年に現在の名前になるまでの期間のほとんどは県立倉吉農学校あるいは県立農学校と言われ、今でも本校を「農学校」と呼ぶ県民も少なくありません。

昭和41年には全寮制自営者養成農業高校の指定を受け、広大な実習地と施設、および全寮制の「(しょう)(うん)寮」を備え、さらに平成10年には農業経営者育成高等学校と指定の呼び名が変わっても、鳥取県における農業教育の拠点校としての地位は130年にわたって変わることなく続いています。

その壮大な歴史と伝統のある倉吉農業高等学校の校長を引き継ぎ、責任の重さを痛感しています。

本校の校是は「国本」です。「農は国の本なり」。農業は国の基幹産業であると同時に、国民の食料を生産する大切な産業です。さらに環境を保全するとともに、作物を育て家畜の世話をすることで、子どもたちに豊かな心や感動する心を育てるという大切な役割を有しています。また、最近では成長戦略として農業がとらえられています。

本校は農業後継者育成高等学校として、鳥取県の農業を継承し地元のために貢献する人材の育成を図るとともに、地域の拠点として地域との連携を視野に、本校教育の進展を図っていきたいと考えています。

近年、お互いの人格を尊重し、支え合い、心豊かな共生社会を築いていくことが求められています。そのためには、命の大切さや思いやりの心、美しいものに感動する心、善悪の判断などの規範意識や公共心など、豊かな心を育むことが大切になってきます。

本校においては、生徒が主体となって行う家畜や作物の世話、草花の管理などをとおして、それらを育てていくことができます。また、寮生活では、同じ年代の人と同じ部屋で過ごし、同じ生活をすることで、互いに気配りをすることの大切さに気づくとともに、ルールを守りマナーを身につけることができます。

このように本校は様々な体験を元に人間力を大きく成長させることのできるすばらしい学校だと自負しています。