「当たり前の日常」のありがたさ
2024年7月4日 09時11分今年は、昨年より少し遅い梅雨入りで、中国地方では統計開始以来3番目に遅い発表となりました。本格的な暑さに向かう中、プールには子供たちの歓声とともに水しぶきが舞っています。暑さと湿度の高さの中、引き続き日々子供たちの熱中症に気を付けながら、夏休みに向けて充実した日々を過ごしているところです。
先日もお伝えしましたが、6月後半のある日、本校児童が下校途中に交通事故に遭う大変痛ましい出来事が起きました。幸いにも、命に別状はなく回復に向かっているところです。本校全校児童には、交通事故発生の翌日に全校集会と学級指導で交通安全の徹底を確認したところです。児童が元気よく登校して、元気よく勉強に遊びにと学校生活を送り、元気よく下校する、そんな日々のありがたさを改めて実感しています。
ところで、私たちは、日々の生活を当然のごとく過ごしている「当たり前の日常」に対して、どれだけ感謝しているのかと問われたとき、どのように答えることができるでしょうか。少しでも「当たり前の日常」が乱れたときあるいは乱されたとき、「当たり前の日常」に対してありがとうと感じることさえ忘れているのが実際ではないでしょうか。
では、ここで問題です。ご存じの方もあるかと思いますが「ありがとう」の反対言葉は何でしょう。「ありがたくない」でしょうか?いいえ、正解は、「当たり前」です。ありがとうは、漢字で表すと「有難う」で、「ある(有る)のが難しい」すなわち「あり(有り)かたし(難し)」)となります。また、「滅多にないこと」、「貴重なこと」が起きたことを「奇跡」と言いますが、「奇跡」の反対言葉は、「当然」とか「当たり前」だそうです。ということは、「ありがとう」≒「奇跡」と言ってもよいことになります。私たちは日々繰り返されるできごとを当たり前と思って過ごしてしまうのは、当然かもしれません。児童においても、日々規則正しく食事ができる当たり前、日々元気よく「行ってきます」「ただいま」と登下校できる当たり前、日々学校に行って勉強ができる当たり前等々、ほとんどのことが当たり前に明日も繰り返されると思いがちです。しかし、よく考えてみると、これらの当たり前だと思えることが本当は「奇跡」の連続で、「奇跡」の連続があるから今があると言っても過言ではありません。言い換えれば、ちょっとしたことで、「奇跡」の連続がある日ある時、あるできごとで乱れてしまうかもしれません。
目の前の「当たり前の日常」は、様々な人々の力を借りて様々な方々の努力や関りのお陰で成り立っています。例えば、現在6年生の家庭科では、エプロンづくりでミシンポランティアの方々に助けてもらっています。友達との助け合いもあり、ミシン縫いの作業が順調に進んでいます。6年生は、ボランティアや友達の助けを当たり前と思わずに、「ありがとう」という気持ちで作業をしているようです。日々の家庭生活や学校生活が、何不自由なく過ごせるに越したことはありませんが、何事もない日常も無ければ何事かがあるのも日常です。陰になり日向になり関わっている方々に思いを馳せつつ、「当たり前の日常」に素直な気持ちで感謝できるそんな自分でありたいものです。