学校長あいさつ

 第30代校長 三谷 徳彦
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 この度、校長に就任しました三谷徳彦と申します。

 本校は明治42年、鳥取県立倉吉中学校として創設され、今年創立117年目を迎える伝統校です。この間一貫して、有為な人材を世に送り出してきました。同窓生のみなさまは、地元倉吉や鳥取県はもとより、全国で、あるいは世界で活躍され、様々な分野で社会に貢献してこられました。

 明治・大正・昭和・平成・令和と時代を重ねながら、本校は様々な教育活動を実践し、高い評価を得てきました。4日間にわたって生徒主体で行われる学園祭、他国の風土に触れ、日本とは異なる価値観や文化を学ぶ海外研修旅行、上級生が下級生を指導するチューター制度など、卒業するときに生徒が胸を張って語ることができる行事と、教職員が親身になって取り組む進路指導とが本校の良き伝統となっています。また、鴨水同窓会や育友会(PTA)と学校との協力体制、そして生徒と教職員の間に構築される強い信頼関係が本校の財産です。

 一方、私たちを取り巻く環境は年々複雑で不透明になっています。スピードと行動が求められ、たえず変化し要求の多い現代社会は、「不安定・不確実・複雑・曖昧」を表す英単語の頭文字をとってVUCAな世界と呼ばれています。しかし、先行きが見えない社会にいることは、視点を変えれば、無限の可能性をもつことができる社会に私たちは存在しているととらえることができます。学び続けることをとおして一人ひとりが成長し、新たな価値を生み出せる人材を育成する、倉吉東高校はそんな学校でありたいと考えます。

 このため、本校は、国際バカロレア(IB)教育の導入を決め、令和5年9月にワールドスクール(資格取得が可能な高校)となりました。このIB教育は1学年20名までとなっていますが、その理念を生かした教育活動を全校で展開することとしています。この思いは、本校スクールミッションにおいて、全日制は「自ら学びを深めながら、世界に通用する論理的思考力や表現力、コミュニケーション能力を身に付け」、定時制は「主体的に学ぶ力や協働的に実践する力を身に付け、自らの夢や目標に向かって粘り強く取り組む」という言葉でそれぞれ具体的に表現されているとおりです。

 私は、校長として、学校は「学びの場」であり、「生徒一人ひとりが輝ける場(あるいは輝ける場を与えられる場)」でありたいと思っています。本校の校歌は、生徒を花に例え、高校生活を謳歌できるようにと願い作詞されています。生徒が校歌の歌詞のとおり「光を受けて こぞり咲く 花なり 若き 友我ら」となることができるよう、全教職員とともに信念と情熱をもって本校の教育活動に取り組む所存です。良き伝統の中に新たな息吹が感じられる、活気と品位のある学校づくりを進めて参りますので、保護者、同窓会、地域のみなさま、今後ともご支援・ご指導賜りますようよろしくお願い申し上げます。

令和7年4月 倉吉東高等学校長 三谷 徳彦

教育の現状(6)

2011年8月28日 00時00分

 生徒の学びをいかにして発動させるか。「教育の現状」ではこのことについて述べてきました。人間はもともと外界の出来事に対して「なぜ」と疑問に思ったり、またそれを解明したりすることに喜びを感じるように出来ています。これは人間の生得的な性質であり、理由などありません。「分かる」ことは人間にとって、無条件の喜びです。しかるに日本の社会状況、とりわけ消費の論理が、児童生徒のこの自然な学びの発動を妨げている。それどころか、学校現場に市場原理を導入することが教育を再生させるに効果的だとする施策が教育を追いつめていると思います。従って、学校が特に注意を払わなければならないことは、教育を消費の論理や比喩でで語らないことだと思います。「タイムラグなくお買い得なものを手に入れる」といったことが納得感である経済合理性を越えること。経済合理性だけが人を動機づける唯一のものだとする貧しい人間観を越えること。もしかするとこれは、逆に今、教育にしか出来ないことなのかもしれません。そう考えた上で、各校は「学ぶ喜び」を改めて生徒に実感させる仕掛けを創意工夫する必要があると思うのです。
 
 先週、全国高P連札幌大会に行ってきました。各校の実践事例発表や各種の講演等、大変意義深いものでしたが、その中で、アトラクションとして地元高校生の様々な発表がありました。その中で、最終日の最後に北広島高校の書道パフォーマンスが披露されました。全国から集まった保護者教職員が注目する中、10名くらいの生徒が、横10メートルほどの紙に一斉に何かを書き始めました。書き終わるまでの間、5分か8分か。私には長い時間に感じられました。5千人以上の人々が、私語一つなく期待をこめて見守る寛容な眼差しの中に、大人としての普遍的な教育の姿勢を見る思いがいたしました。
 

教育の現状(5)

2011年8月19日 00時00分

 生徒の学びに火をつける。このことがいかに重要で、かつ困難なことかをご説明してきました。今しっかり学んでおくことが、自分の将来に死活的に重要になると直観して学びを発動するといったことが、全ての児童生徒に単純に期待できる状況ではありません。従って、児童生徒の学びを発動させる工夫や仕掛けをいかに行っていけばいいか。ある意味、本校は常にそのことを模索してきました。「教え込まれる受身的な学習から、自ら取りに行く主体的学習へ。teachingからlearningへ。」。これが一つの結論です。
 
 そのような取り組みのひとつとして、本校は2002年度より「国際高校生フォーラムin倉吉」を開催しています。詳しい取組内容は「学校行事」のボタンを押していただきたいと思います。今まで生徒は学校で、あらかじめ正解のある与えられた問題を、いかに早くスマートに解答するかの訓練を受けてきました。しかしこれからの日本社会は、必ずしも先例のある問題ばかりに出会うわけではありません。環境問題、少子高齢化問題、近くはこの度の東日本大震災などなど、人類が今まで出会ったことのない問題に立ち向かわなければなりません。そのようなときに必要となる力は、自ら問を立てる力、調査研究する力、論理的にまとめる力、そして効果的に表現する力などです。このような力を養うために、またそのような力を養う取り組みを通して、生徒たちに学ぶ喜びを実感してほしいという願いで、高校生フォーラムを実施しています。全国、そして海外から集まった生徒たちの総数は、既に500人を優に越えています。このような取組を通して、多くの若者が学ぶ喜びを知り、主体的学習者に成長していったと考えています。
 
 

校長ティータイム最初のゲストは・・・

2011年8月18日 00時00分

校長ティータイムの最初のゲストとして「第10回国際高校生フォーラムin倉吉2011」実行委員長の谷本奈那さんが招待されました。
 
   
   フォーラムは大きな仕事だったねえ。               現代社会の課題に挑戦するような生き方をしてほしいね・・・
                はい、まだ残務整理が・・・        フォーラムを通して感じたことは・・・?
  
  3年間フォーラムに参加しました。
     すごい仕事量で、手帳に予定をびっしり書き込んでいました。
  記念すべき10周年の委員長を務めることができ、誇りに思っています。
 
第1回の「校長ティータイム」はとても和やかな雰囲気でした♪

教育の現状(4)

2011年8月17日 00時00分

 教育の現状(1)から(3)で、児童生徒の学びがなぜ発動しにくくなっているかを述べてきました。その原因分析が正しいとすると、児童生徒の学びを発動させる方法として、「学んでいいこと(学びの対価や報酬)」の一覧表的開示といったやり方は合理的でないように思われます。昨今、キャリア教育ということが言われるようになりましたが、学歴や職業の違いによる年収の差といったような学習をすることで、学びのモティベーションを高める取組であるなどと取り違えてはいけません。「学び」に「報酬や対価」といったものを持ちださず、子どもたちの向学心に直接火を付けることはできないか。消費の原理というバリアに包まれていても、子どもの好奇心や向学心は厳然と存在しているのであれば、それに働きかけて行けないか。「倉吉東高のかたち」の中核的概念のひとつ「主体的学習者の育成」は、このことを目指したものです。
 
 そのような発想から具体的取組として、例えば本校では約10年前から「学びの復権」という冊子を刊行するようになりました。これは教職員一人ひとりが、自らの学びの体験を赤裸々につづったものです。1年生用「今、君たちに伝えたいこと」、2年生用「主体的な学習者になるために」、3年生用「志ある学習者をめざして」の3部構成になっています。教員といえども自らの学習体験を語ることは面映ゆいものです。それでも、生徒の学びが主体的なもの(報酬や対価を求めることから脱し、テストや受験といったものに促されるのを越えて)であってほしいという思いから、生徒の学びのあり方について直接語りかけ続けてきました。
 このような発想で本校の取り組みを見渡していただくと、そういう目的でこの取り組みが行われているのか、と改めて理解を深めていただけることもあろうかと思います。そのような取り組みの一つとして、次回は「国際高校生フォーラム」について論じてみたいと思います。

教育の現状(3)

2011年8月16日 00時00分

 子どもは本来「学び」に先立つ対価や報酬といったものとかかわりなく、学びを発動するものだ。「学んでいいこと」は「学び」の事後的にしかわからない。そういったことを内田樹氏の『日本辺境論』を引いて先回論じてみました。しかし子どもの現実はそう甘くはありません。
 
 内田氏によれば子どもの「学び」が発動しにくくなっている原因は「消費の論理」にあります。今の子どもたちは、もの心つくとすぐにお金を持たされて、「賢い買い物」をすることを学びます。安くていいもの(いわばお買い得なもの)を手に入れる訓練をします。徹底的にそのような訓練を施された子どもが、いつ役に立つともわからない「学び」に、「将来死活的に重要になる」と先駆的に直観して取り組むことなどしないでしょう。潜在的に身についているはずの「先駆的に知る力」は、幼少のころから「消費活動」にいそしむことによって、開発されることもなく立ち枯れてしまいます。ここを何とかすることが現在の学校教育に求められているのです。
 
 事実、いかに労を惜しみつつ成果をあげるか(お金を惜しみつついいものを手に入れるか)といったことに生徒が腐心するシーンを多く見ます。生徒は受験科目を絞りたがります。教科の取り組みにおいても無駄なことはしない。必要最低限こそベストといった風潮が強く、それを越える学習は損得といった基準で意識されがちです。このような学習では重厚な学力が身につかないのは言うまでもありません。
 本当はどの教科の学力も、広く深い教養の上にしか高く積み上げられることはありません。富士山が日本一高いのは、日本一広いすそ野を持っているからだ、とよく言われますが、このイメージが各教科の学力においてもぴったりだと思います。生徒が学校で取り組む学習に無駄なものなどない、というのが真実だと思うのです。

教育の現状(2)

2011年8月12日 00時00分

 本校の「読書小論文活動」の著者講演でおいでいただいたことのある内田樹氏に、『日本辺境論』という著作があり、その中で教育に関する記述があります。概ね次のようなことが書かれています。
 
①、人類が様々な滅亡の危機を乗り越えて、ここまで生き延びてきたことを考えれば、人間には極限の状況におい  
 て、(先例やマニュアルがない中で)死活的に重要な行為や選択が、何の根拠もないままに先駆的に直観できる力
 があり、それに基づいて適切に振舞う力が潜在的に備わっているはずである。
②、「学び」は、それを学ぶことの意味や有用性が分からない状態で、にも関わらず、今学ぶことが将来死活的に重要
 な役割を果たすだろうと先駆的に確信することから始まる(この力を「学ぶ力」と呼ぶ)。逆に、学ぶことの意味や有用
 性を、学び始める時点で言い表わすことなど誰にもできない。「学んでいいこと」は事後的にしか分からない。
③、①②の条件から、本来子どもたちは「学び」に先立つ報酬や対価といったものとは関係なく、それでも「学び」を発
 動することはできるはずであるし、今はその意味が分からなくとも自分の将来にとって学ぶことは重要だと考え適切
 に振舞う力がある。事実辺境国日本はこのような「学ぶ力」を最大化することによって、大国強国に伍してきた伝統
 がある。
 
 ここで述べられている学力観・学習観・子ども観と、教育の現状(1)で述べた日本の児童生徒の学習状況とは明らかな乖離があります。「子どもは好奇心のかたまりで、あらゆることに興味と関心を示し、自ら解明しようとするものだ。」といった、よく言われる子ども観と、現在日本の子どもたちの現実とには、隔たりがあると言わざるをえません。この先駆的に知る力(意味や有用性が分からないまま、いずれこのことが死活的に重要になると根拠のないまま確信して適切に振舞う力)の衰微は、子どもの学力問題として非常に重要であるばかりか、将来の日本にとっても深刻な問題をはらんでいるはずです。
 なぜこのようなことになってしまったのか、そしてどうすれば改善できるのでしょうか。
 
 
 
 
 
 

教育の現状(1)

2011年8月8日 00時00分

 本校ホームページが新しくなったのを契機に、校長による「雑感」のコーナーを作るので何か書けといわれました。系統だったことはできませんが、教育に関して本当に雑感めいたことをつづって行きたいと思います。よろしくお願いいたします。
 
 さて、沢山ある教育問題の中で、恐らく一番問題なのは児童生徒が勉強しなくなったことに尽きると思っています。これは印象ではなく統計でいえることですが、例えばOECDに加盟している先進国中、学校以外で勉強する時間が、日本は世界最低であることからもそれは実証されています。学力低下が問題視されていますが、今くらいの学習時間で今の順位が保てていることが不思議なくらいです。
 それではなぜこれほど日本の子どもたちは勉強しなくなったのか。どうすれば子どもたちの学びが発動するのか、といったことについてこれから少しずつ述べていきたいと思います。